石孫本店の物語
創業は安政二年(1855年)。
黒船が来港し、江戸幕府に暗雲が見え始めた頃のこと。
醤油を使う文化がまだまだ広まっていないこの地で、
初代孫左エ門は醤油の醸造を志しました。
石孫の歴史、現在へいたるまでの物語。
大正初期のものと思われる石孫の『醤油の栞』によりますと、
“安政二年元祖孫左エ門ハ意ヲ醤油ノ醸造ニ志シ
當時僅カニ一小村落ニ過キサリシガ氣候温和ニシテ
水利ノ便他ニ優レ水質亦純良ナルヲ以テ醸造用ニ
最モ適スルヲ知リ將來有望ナルヲ認メ自ラ研究シ試シムルニ
品質佳良ノ醤油ヲ得タリ醸造業ノ基礎ヲ確立セリト云ウ…”
と、あります。
安政二年(1855年)初代石川孫左エ門は元々酒処であるこの地が醤油醸造にも適することに着眼し、杜氏南部三郎を招いて研究を重ねました。
その後、当時の岩崎藩藩主・佐竹公へ醤油を献上、賛を博したことから広く一般にも用いられるようになり、事業の基盤を確立します。
当時はまだ醤油というものがこの地には広まっておらず、‘たまり’が主流だったと言われています。しかし、幕末・明治と時代が移り、中央・他県からの人や文化が入るにつれて、醤油を使う習慣も定着したようです。
初代・孫左エ門が醤油醸造を始めたことは、時代の先駆けだったと言えるでしょう。
『醤油の栞』
不鮮明だが、住所は「秋田県雄勝郡岩崎町」と記され、現存していない煙突が象徴的に描かれている。
明治に入り、二代目孫左エ門は、当時醤油醸造の先進地であった千葉県野田・銚子地方の視察を重ねるなど、さらなる研鑚を積んで、初代が築いた基盤を元に、事業を急成長させました。
また、販路を広げるに当たり一目で人々の記憶に残り、目に留まり易い樽印の必要があると、‘フンドウジン’の商標を作ります。
この‘フンドウジン’にはこのような話が言い伝えられています。
“或夜豫テ信仰スル観世音菩薩出現シ賜ヒ營業本意ハ仁義禮智信ノ五箇條ヲ守リナバ必ス繁昌シルト諭サレタルヲ夢ミ即チ之ヲ取リテ商標と為セリト云ヒ傳フ”…
二代目の夢枕に立った観音様に‘仁義礼智信’の五箇条を営業の信条とせよ、と諭され、重さを量る分銅に‘仁’の文字を入れる樽印を考案しました。
フンドウジンは現在も石孫醤油の商標として使われています。
石孫味噌の商標で、蔵の外壁にも付けられています井桁のマークについては詳しい記述も言い伝えも残念ながら残っておりません。
酒造業を営んでいた本家から伝わったものではないか、と推測され、創業以前から屋号のように使われているようです。
蔵の壁や石孫の揃いの半纏の背にも大きくこの井桁が染め込まれていることからみても、昔から、より親しまれてきたマークであることは間違いないでしょう。
また、『孫左エ門』の名も代々継承していくことになります。
『二代目・石川孫左衛門』
印画紙ではなく、ガラスに焼き付けられたネガのようなもの。「明治六(年?)」とあるので、廃藩置県直後、江戸が東京府に改められて間もなく撮影されたようだ。
東京まで出向くことも多く、当時交流のあった著名人の、現在でいうサイン帳も残されている。
フンドウジン・井桁の登録商標とある看板は今昔変わらない。文字の方向だけが左から右へと読むように変わっている。戦前は、通り一本を隔て酢蔵があり酢の醸造もしていたため精酢の文字も残っている。
大正から昭和へ時代が移ると戦争は否応なしにこの穏やかな農村地をも巻き込んでいきます。
二代目、三代目で開拓した販路は広く秋田県内各所に支店を設けましたが、戦時統制で支店は解散させられ、本店のみとなってしまいました。
物資は日増しに乏しくなり、配給制となった米も大豆も思うように回らず、代用品としてサツマイモが配給されたこともあります。
誇り高き蔵人たちには悔しく辛い時代であったことでしょう。
方々で造りを諦めざるを得なかった醸造所もある中、一度も造りを止めることなく続けてきたことは、蔵人の努力の賜であったと思います。
戦況は次第に激化、五代目も徴兵され戦争を経験します。
しかし幸いにも九死に一生を得て帰国が叶い、その後は戦争で途絶えかけた製造技術を再現、また、新たな製品の開発・研究に没頭し、平成17年に他界する直前まで、頑なに石孫の伝統を守り抜きました。
その年に改組し現在の有限会社石孫本店となり、当時公職に就いていた六代目に代わり石川裕子が代表取締役社長に就任いたしました。
前列の腰掛けた背広姿の二人、右が四代目、左が五代目の孫左エ門。
まだ自動車が多く普及していなかった時代、先駆けてトラックを導入していた。
左から6人目が六代目孫左エ門にあたる石川耿一、中央は現社長石川裕子。
2020年、創業165年を迎えての記念写真。
2011年3月、東日本大震災の際に、一番大きく古かった一号蔵は倒壊。
その二、三年前の岩手・宮城内陸地震でダメージを受けていた上に、近年稀な豪雪で下ろしきれなかった雪の重み、さらにあの激震で遂に力尽きるように崩落してしまいました。
大切な一号蔵を失った事は大変辛い経験となり、一時は喪失感に見舞われたものですが、諦めることなく前進の道を選択し、蔵人一同、一丸となって苦難を乗り越えて参りました。
二号蔵が醸造蔵として生まれ変わると二十代・三十代の若い杜氏は新たな商品の考案・開発に挑戦、熟練の杜氏は豊富な経験から知恵と技術面で彼らをサポートするなど、高齢化・後継者不足の業界ながら良いバランスを保っていられることも強みのひとつと思っております。
メディアや展示会等イベントに取り上げていただくことも増えました。
2012年にはテマヒマ展(21_21DESIGN SIGHT:企画)に参加し、そのご縁で2014年2月28日からの「米展」にも関わらせていただきました。
それまで誌面が中心であったものが2013年2月にNHK「うまいッ!」にて取り上げていただいたのをはじめとし、2018年10月には日本テレビ「満天☆青空レストラン」にて、その後の発酵食品ブームもあり特集番組やバラエティ番組の一部など、映像で仕込みの様子や商品をご覧頂く機会が増えました。
2020年、創業から165周年を迎えるのを機に内部の大規模改修を行い、母屋を元の姿に戻しイベントスペースとし、販売コーナーを整え、蔵の一部も改修して蔵見学コースを整備、【あきた発酵ツーリズム】の発酵文化拠点施設へと指定されました。
直後コロナ禍の影響を受けますが、蔵見学ツアーの評判は上々、数量や開催日限定で「石孫らーめんの日」と称した社員による手作りラーメンの提供、味噌造り・醤油しぼりなど体験型ワークショップの開催など、気軽にお立ち寄りいただける工夫を凝らしております。
創業時の造りにこだわり、迅速・量産といった時代の流れを思うと効率は悪く感じられますが、伝統技術を後世に伝えることも私どもの仕事のひとつでありますので、食を通し伝統文化継承のお役に立ちたいと考えております。